耳をすますな

助けてくれ〜〜〜

野菜食え 死ぬぞ

私の1日は罪悪感から始まる。

私は大抵17時に起きる。

寝るのが遅いというわけではなく、普通に1時には寝てる。そして17時に起きる。

好んでしているわけではない。昼には起きて、きちんと昼ごはんを食べ、映画を観たりミシンをしたり刺繍をしたりしたいのである。

主治医に言わせると、それはうつの症状であるから、うつが良くなればなくなるということだった。

 

うつが良くなれば、というが、どうやったら良くなるんだろう。貰った薬はきちんと飲んでいるし、もう9年も病院に通っているのに。

 

このところ、彼氏との違いをよく考えてしまう。

彼氏はどうやら優秀な研究者らしく、先輩後輩同期からも好かれ、月に何度かは飲みに出掛けている。そして、ほぼ毎日電気を消したらすぐに寝て、午前中に起きて大学に行っている。両親や親戚との関係性も良好で、アルバイトをしなくても良いくらい仕送りももらっている。バレンタインデーには母親からハートマーク付きでお菓子が届く。

 

そんな彼氏から、「一緒だよ」と言われたことがある。それは、私がどうにも周囲の人のように働いたり、フリーターにすらなれないことについて、彼は「ぼくも一緒だよ」と言った。

何がだろう、と思った。私は大学も通えずお金も持っていなくて、うつ病で、目は霞むし起きれないし、そういうことがを言いたいのに、何が、何が一緒なんだ。

 

9年間、私は薬を飲み続け、それでも早起きはできない。なのに彼は「早起きしたほうがいいよ」「すごく良い天気だったから散歩すればよかったのに」と言う。

 

付き合ってもう5年が経つ。いつか、分かってくれるだろうと思って我慢していたことが一気に噴出して私の心にマグマが流れる時がある。

 

私が「1日が短くて、何もできなくて焦っている」と言った時、彼は吹き出して笑った。「何を焦ることがあるんよ!」と笑った。

その日の夜、私は突然声を上げて泣いた。

すると彼は枕を叩いた。「どうしろって言うねん!」と怒鳴った。

私は私で彼に理解されないことを嫌がったが、彼は彼で私が理解できないことをすることを嫌がった。

いつかあの枕が私の頭になったりしないだろうか、と思う。

 

ここまで書くとあまりに酷い人であるが、実際は私は彼といる時ほとんど笑っているか、もしくは爆笑しているのである。

彼とは趣味も合うし、ノリも合うし、一緒にいて非常に楽しい。それが、私を悩ませる。私が泣いて枕を殴る人と、私がバスから降りると待ち構えていて子犬のように跳ねながら迎える人が、一緒だから困っている。

 

私は私の人生の決定権を持っていないように感じる。もし、私が住むところに困っていなくて、なんであれ仕事をしていたりしたら、もっと他の選択肢があるのかもしれない。

しかし、現実的に、実家に帰って地獄で暮らすよりは、彼との生活はずっとマシであると思っている。

 

私が、初めて他人に「脚本家になりたい」と言ったのが彼だった。その時、自分のことのように喜んで「応援する!」と言った、あの時のあの暖かい手が、私を掴んで離してくれない。

 

きちんと自立して精神的にも健康な状態で、それでも彼を選びたいと思えたら。というか、そうでなければ失礼ではないか、と思ってしまう。

 

謝らなければならないことがたくさんある。

子供が欲しいと言ったことも、今はそう思えないことも。そしてそれを切り出せずにいることを。

 

カウンセラーさんと話していて、もし自分に子供ができたら、と想定してみた。彼は育児を積極的にやると言ったが、もちろんずっと一緒にはいれないわけで、その間、私から出てきた他人と2人で。赤ちゃんの時期が終わっても育児はその後も続くわけで。子供のためにご飯を毎日同じ時間に用意できるだろうか。健康に配慮したものができるだろうか。たとえ冷凍食品だとしても、同じ時間に同じように出せるだろうか。それ以外のことも全て、できるだろうか。

 

駅の時刻表掲示板に「野菜食え 死ぬぞ」とステッカーが貼ってあった。

私が野菜を食わずに死んでも自業自得だが、子供に野菜を食わせられなかったら!

む、難しい…と思った。

 

あのステッカーを見てから今日はずっとうっすら泣いている。

このことを抱え続けていられなくて、そのうち忘れていって、私は彼と結婚するんだと思う。ずっと、枕が頭にならないことを祈りつつ。

 

私が選んだ道が正しいのか、間違っていたのか、それは死ぬまで、いや、死んでからも分からないかもしれない。でも、どうしてそうなったのか誰か1人だけでも知ってくれていたら。

 

今、バスの中でこれを書いている。

彼がバス停に迎えに来ないことを願っている。

涙が止まらないから。

孤独について(或いは私と誰かについて)

初めて付き合った人は、路上に唾を吐く人だった。

しかも私と手を繋ぎながら。

付き合って初めてのデートで、唾吐いてた。

私はやめて、と言えなかった。なぜなら彼は(確か)4歳か5歳年上で、大学院生だった。

私と付き合ってから博士課程に進んでいたと記憶している。

今思えばこの時点でちょっとやばい人であった。私はまだ18歳で、非常に幼かった。

唾を吐く人との交際は11ヶ月続いた。

その人は潔癖症のようで、私とキスした後、足早に洗面台へ向かい、全力でうがいをし、時には歯磨きまでしていた。

その行為は私の自尊心を大きく削り取っていった。

ひとりで鴨川を泣いて歩いたこともあった。

 

私は傷つき、鈍くなった。もともと恋愛とかはさっぱり縁がなかったので、そもそも鈍くて、より一層鈍くなって、何も分からなくなった。

 

自分が誰かに大切にされても良いということが、最近ようやく分かってきた。

20歳前後の自分は、自分を否定してきそうな人を好きになったりしていた。

私のことを好きな人の気持ちは分からなかったが、嫌いな人の気持ちなら分かった。

それに固執してブンブン腕を振っていたら、何が正解か分からなくなってしまった。

 

今のパートナーと交際するようになったのも、実を言うとあんまりよく分かってない。

彼は「初めて会った時、この人は僕と付き合うべきだと思った」と言っているのだが、私はこの「初めて会った時」を全く覚えていないのだ。それではとても可哀想なので、「私もそうかも!」と言っているが、本当に全く記憶にない。

なんか顔が可愛いなぁ、と思ってたけど、いつ個別で認識したのか記憶にない。

気づいたら毎日連絡が来て、気づいたら告白され、気づいたら同棲していた。

5年も一緒にいると、色んな思い出ができて、だんだんと「この人とずっと一緒に暮らすんだろうな」と思うけど、なんかモヤモヤしたりもする。

 

彼は、良く言えば社交的で友達も多くて将来も安泰(多分)、悪く言えば強引で執着心が強くて気性も荒い。

同棲して5年目で、ようやくこの悪い部分が良くないなぁ、と思い始めた。

明らかにおかしい扱いを受けても、鈍った心が「彼が正しい」と判断していた。

しかし、怒ったら3日間口も聞かないし、自分が正しい行為をしていると思うと途端に強気になったりする。そんな相手と後何十年も一緒にいるのか…と思うと途方もない気分になる。

 

じゃあなんで一緒にいるの?と思うでしょう。

私はうつ病で大学にも行けずアルバイトも続かず、年金を貰うことで生活を賄っている。

もうすぐ28歳だ。実家はめちゃめちゃで、ひとり暮らしできるほどのお金もなくて、それでも良いから一緒にいたい、と言ってくれるのだ。

体重も彼より重くなって、ムダ毛の処理もしなくて、夕方まで寝てる私を可愛い可愛いと言ってくれるのだ。

これ以上のことを望むのは、できない気がしている。障害年金受給認定の紙を見て、「精神障害2級」という文字をなぞって、途方もない気持ちになった。

 

私に足りないのは「主体性」である。

恋愛において主体性が欠如していたと思う。恋愛だけではなく全てのことに対してでもある。

自分を濁りのない気持ちで好きでいてくれる人と、自分をトロフィーのように思っている人の区別もつかなかった。

自分が誰を好きで、誰にとっての特別になりたいのか、分からなかった。

もっと、もっと考えるべきだった。

 

言葉にできる気持ちより、言葉にできない、言葉にしなかった気持ちが、私を支える時がある。経験したことより、経験できなかったことの方が大切な気がする。

ある曲を聞くと、ある人を思い出す。

全てを開示してほしい今のパートナーに、隠している感情がある。

表に出ない全てを捧げたい。しかし、それは言わないから、大切なものとして頭の中の引き出しに閉まっておける。辛い時、その引き出しを開ければ、自分はこんな扱いを受けるような人間じゃないと思える。

その引き出しはきっと、夜の海の色をしているだろう。

 

自分が勝手に好きだった人を思い出してみる。

初恋は幼稚園の時で、日本人と韓国人のミックスな男の子で、バレンタインに家までチョコを持っていったの覚えている。その彼はとてもやさしく、お返しにスヌーピーのミラーをくれた。シュッとしててハンサムだった。

小3くらいの時は、サッカークラブに入っている女の子が好きだった。クラスでは一匹狼なクールな女の子だったけれど、なぜか私を気に入って、一緒に下校するときは肩を組んでいた。

アルバイト先の先輩は坂口健太郎に激似だったので、それだけで好きになってた。

自分が外見だけ褒められるの嫌がるくせに、自分も顔から好きになってる。地獄で焼かれろ。

 

パートナーの顔がとても好きで、ずっと誰かに似てるなぁと思ってたんだけど、つい先日分かりました。彼は加瀬亮に似ている。加瀬亮、私が唯一写真集を持っている男。

 

 

みんなそれぞれ生涯のパートナーと生きているのに、私だけ「え〜!加瀬亮に似てる〜!」と言っていて、やや恥。加瀬亮加瀬亮ではない)が生涯を共にする人か、いつか答え合わせしたい。

孤独について(或いは私と叔父について)

私には「かっちゃん」という叔父がいる。

 

しかし、私はかっちゃんを見たことがない。かっちゃんの名前も知らない。ただ、母から教えられたわずかな情報しか持っていない。

 

幼い頃、祖父母の家に行った時のこと。

もうそろそろ寝ようか、とみんなで寝ていた時、何か物音がして、何者かの気配を感じた。

母に、誰かいると言うと、母は「たぶんかっちゃんや、お母さんの弟やで」と言った。

幼い私は「なんでみんないる時にいないの?」と聞いた気がする。母は、「かっちゃんはそういうのが苦手やねん」と言った。

翌朝も、かっちゃんは姿を見せなかった。

かっちゃんがいわゆる引きこもりであることにはそれから少し後になんとなく気づいた。

 

祖父母の家には何回も行ったが、かっちゃんを見たことはない。

自分が中学生になって引きこもり状態になった時、なんとなくかっちゃんの気持ちが分かる気がした。

それから随分経って、大人になってから、かっちゃんは統合失調症であると母から聞いた。

祖父母の家はとても田舎にあって、コンビニすらなく病院もない。

そんな土地で、かっちゃんはどれだけ孤独だろう、と想像して、恐ろしくなったこともある。

かっちゃんの話は、自分にはあまり関係ないと思っていたこともあったが、うつ病になってからは、かっちゃんのことが気にかかるようになった。

 

祖父が亡くなり、祖母ももうあまり動けなくなっていた数年前、母が休みの日に出かけて帰ってきたので、どこ行ってたの?と聞くと、「かっちゃんをな、お寺に入門させてな、修行させてもらうんや。」と言った。

兄弟みんなで見送ったらしい。

私はそれを聞いて、なんだか背中がひんやりした。

 

かっちゃんは見捨てられたのだ、と思った。

おそらく何十年も引きこもりで、統合失調症らしいかっちゃんを、寺に入れて何になる。

かっちゃんは適切な治療を受けたり支援を受けたりするべきだと私は思った。しかし、かっちゃんは姿を隠され、終いには兄弟たちに寺に入れられてしまった。

母は、たくさんたくさんお願いをして見送ったと言っていた。しかし、かっちゃんは仏様にいくら頼もうが、どうにもならないことなんて私でも分かる。

母の世代の、精神病患者がどのように扱われ、どのように生きていたのか、私は知らない。

仏様に身を委ねるというのも、一つの選択肢に入るのかもしれないが、そうしろと言われたかっちゃんの気持ちを考えると、悲しくてたまらなくなる。

 

かっちゃんは半年も経たないうちに寺から戻ってきたそうだ。そうしてまた引きこもっているらしい。祖母は少しぼけてきていて、祖父母家の隣に家を建てた母の兄が面倒を見ているらしい。

この母の兄が、私はとても苦手だ。

何をするにも高圧的で、声が大きくて、短気。

伯父は離婚して今は独り身だ。祖母の世話をするのも嫌がっているらしい。

そんな人がいるところで、かっちゃんはどうやって生きているのだろう。

世界でひとりぼっちで、どこにも逃げられない。

 

私は母親が苦手だが、苦手な要素として、精神病への偏見と扱い方があるな、と最近思う。

母からすると、弟は統合失調症、夫はうつ病アルコール依存症、娘もうつ病。周りにこれだけいたら、理解が進む気がするのだが、そう言う訳でもないようだ。母はかっちゃんを隠し、自分の夫がうつ病だと子供たちに知らせず、娘がうつ病というのを詐病だと詰った。

 

母が一緒に心療内科に行くと言うので、嫌だったが連れて行ったことがある。主治医が「食欲はどう?」と聞いて、「あんまりないです」と答えると、母は鼻で笑いながら「嘘です、ご飯ちゃんと食べてます」と言い、私が主張するものを全て嘘だと言った。私が嘘をついてうつ病と言い張ってるのだと言った。

その時は、理不尽だしとても悲しかったが、今なら少し分かるかもしれない。母はおそらく、精神病というのを非常に極端に捉えていて、自分が育てた娘がそうなっていると、母は信じたくなかったのではないか。

 

母からすれば何もかもがうまくいっていないのかもしれない。

弟はひきこもりで、夫はアルコール依存症で、娘もうつ病で。

母はひたすらに隠している。弟が社会と関わらないこと、夫がアルコールから逃れられなかったこと、娘が大学も行かずうつ病なことも。

私の父が亡くなった時、葬儀場からの帰り道で、私と姉にこう言った。

「どうして亡くなったか聞かれたら、心不全って言いなさい。」

私はそれに納得できず、そのとき働いてた職場では腎不全だと言った。

 

かっちゃんはどうしているだろう。一度も話したことのない叔父に、私は自分を重ねる。

「そっち側」なんだと思う。

社会からはみ出している。

何が正しくて、何が間違いなのか、分からない。

分かっているのは、私にはセロトニンが足りていないことぐらいだ。

 

母は、夫が亡くなったことを祖母に隠している。祖母がショックを受けるからだという。

父はまた隠されている。祖母の中でまだ生きている。

私のこともきっとどこかで隠している。

 

母が隠せないぐらい、大きくジタバタ生きていきたい。

孤独について(或いは父について)

初めて孤独というものに触れた時を今でも覚えている。

それは私の父であった。

幼少期、年始は母方の祖父と祖母の家に行っていた。父には親戚はいないらしく、母方の家に帰るのが私たちにとっての里帰りだった。

母の実家は京都の北の山の奥の奥にあり、コンビニもスーパーもなく、代わりに雄大な自然に囲まれていた。車で行っても2時間はかかるようなところだった。

年始、家族4人で車に乗って母の実家に泊まりに行った。とても寒くて雪が降っていたのを覚えている。到着してご飯を食べて、ゆっくりしていると、父が何やら祖父母に挨拶をして、帰り支度をしていた。母に「お父さんは泊まらないの?」と尋ねると、「お父さんはこういう場が苦手やからね」と返された。父は、山の中まで歩いて、2時間に1本しかないバスに乗って帰るとのことだった。

父を見送りに外に出た。雪の中ひとり歩いて行く父の背中を見た時、私は子供なりに孤独というものを知った。

父が母の実家に泊まることは一度もなかった。

 

父は一昨年、自分の部屋で倒れて死んでいた。同じ家に姉と母が住んでいたにも関わらず、父は死後1日以上経ってから発見された。父は家でも孤独だった。

警察署で見た書類に、「アルコール依存症うつ病」と書かれていた。母からなんとなく精神科に通っていると聞いたことはあった。父は精神科の薬をあまり飲んでいなかったらしい。

 

いつから?と考えてしまう。なんとなく、私が高校生のとき、会社をリストラされた前後でアルコール依存症になったことは感じていた。うつもその時から?それとももっともっと前から?生きている間に知れなかったことは、死んでから知ることはできなかった。

私も絶賛うつ病であるが、父の病には寄り添えなかった。それをするにはあまりにも幼すぎた。

高3の模擬試験の前日、父が失踪した。模擬試験中に「今父親が生きてるのか死んでるのかも分からないのになんでこんなことしてるんだろう」と思った。父は帰ってきた。大阪で死に場所を探していたらしく、お金もないのに酒を飲み、それでもなんとか帰ってきたらしい。家族の顔が浮かんで、と話す声をうっすら聞いた。母と姉が「生きてて良かった」と泣いている中、私はその輪に入らず父に何も声をかけなかった。なぜか腹が立っていた。父とお酒に振り回されるのに嫌気が差していた。しかし、父がいなくなった今、このことを非常に後悔している。「生きてて良かった」となぜ一言声をかけなかったのか。

父が火葬される前最後の対面の時、私の口から出たのは「ごめんなさい」という言葉だった。父に寄り添わなかったこと、父のことが大好きであるのをすっかり忘れてそっけない態度をとったこと、父を理解しようとしなかったこと。全部全部、生きてる間にできなかった。

 

父は孤独であったが、孤独を愛する人でもあったように思う。父には年賀状がメガネ屋からしか届かず、友達もおらず、会社の飲み会にも行かなかったが、それでもかわいそうとは当時も今も思わなかった。父には父の世界があった。それは娘である私でも入れぬ領域だった。

 

父は孤独を愛したが、病がそれを許さなかった。孤独はどんどん膨らんで、そして父は寒い日に1人で死んだ。死因は肝不全だったが、そうなるまでお酒を飲ませたのはその膨らんだ孤独によるものだったのではないか、と思う。母は「自殺じゃなくて良かった」と言っていたが、私は同意できなかった。何が良いのか。もう終わりなのに。一体何が良かったんだ。

 

 

ここから私のことを書こうと思っていたけれど、涙が止まらないので終わりにします。

 

人生のバグ

生まれて初めて孤独を感じたのは、幼稚園のお餅つき大会だった。少なくとも記憶にある限りではそれが最初だった。私はなぜかお餅つき大会が得体の知れないもので怖く、母の手を離すのが嫌だった。幼稚園の先生にしがみつきながら参加したが、みんなが普通にできていることが私にはできない!と強く感じたのを覚えている。


理由のある孤独感はまだ良いのだが、たまに理由もなくとても孤独に感じる時がある。なにもできないような、そんな感覚になることがある。もしかしたら誰しもそうなのかもしれない。私はこれを人生におけるバグだと認識している。


孤独はどこからかやってきて、私の脳を支配する。すると単純作業すらうまくできなくなる。一度、ティーバッグの紅茶を淹れるのに失敗して台所で号泣したことがあった。誰しもあることなのかもしれないが、私はいささか頻度が多い気がしてならない。


『違国日記』の中で、孤独感を砂漠に例えるシーンがある。もしそうだとしたら、私はきっと生まれた時から砂漠にいたのだろう。そしてこの先も砂漠で暮らしていくしかないのだ。

夏の猫

猫を飼っている。もう15年近く一緒にいるのだが、不思議なことがある。猫は冷房がとても嫌いなのだ。夏の暑い日も冷房を避けて暮らしている。空気のこもった廊下の1番奥、棚の上が猫のお気に入りの場所だ。朝起きると、洗濯物をかき分けて棚の上を見る。そこに猫がいるとそれだけで幸せな気分になる。


しかし、きっと涼しい場所にいた方が良いのだろう。こんなとき、言葉が通じればなぁ、と思う。言葉が通じれば、冷房は涼しくて良いものだということ、暑さはあなたの体に良くないということ、もっとたくさん水を飲んで欲しいことを伝えられるのに。


そんな今日も、「にゃー」と鳴かれれば、扉を開け、ごはんをあげる。なんて言っているのかいつか分かればいいな。

8月のこと

8月に入った時点で、かなり無理をして労働をしていた。と言っても、労働自体はそんなにしんどかったわけではなく、労働という事実がしんどかった。


皮膚、かゆっ、と思って皮膚科に行ったらアトピーだと診断された、まじで痒い、足がまだらの茶色になってしまった。


普段しているバイトの延長で、屋外でバイトすることになった。汗かいたら痒い〜と思いながら、京都駅からバイト先まで15分歩いた。この時点でもう帰りたかったが、気合いでどうにか乗り切った。屋外と聞いていたが実際にはクーラーの効いた部屋に入らせてもらえたので、楽チンなバイトだった。頑張った。乗り切った。私は働ける。今週の三連勤も働ける。そう思っていたら深夜に発熱した。


その日から1週間、37.4℃前後をうろうろしていた。こういうご時世なのでバイトはしばらく全部休みになった。「頑張れない人」と思われた気がして少し悔しかったが、休めるので嬉しかった。

内科で診てもらったところ、「ただ微熱がある人」ということだった。水分を摂ってしっかり休めば大丈夫らしかった。

微熱が下がってかかりつけの心療内科で診てもらったところ、「夏季うつだね。」と言われた。夏、結構好きなんだけどなぁ。


休みはスピードが大事。潰れる前に休む。もう少し潰れていたが、9月末までバイトを休むことにした。休むと決めたら途端に楽になった。しばらくゴロゴロ何もせずに過ごそう。たくさん寝れるといいな。


今日、どうしてもフルーツが食べたくなって、スーパーへと買い出しに行った。曲がり角で原チャリに轢かれかけた。現実は厳しい。